母から受け継いだもの
歳を重ねると不思議なもので、昔は、無ければないで事足りていたものが、無性に食べたくなる。
その1つが糠漬け。
糠漬けは子供の頃、我が家の食卓には欠かせないもので、母が毎日、季節の野菜を何かした漬けていた。
母の好物はこの糠漬けであり、母は糠漬けがないとどうも気が落ち着かないらしい。
入院したり、ちょっと旅行をしたりすると必ず『ああ、早く帰ってお漬物とご飯が食べたい』とか、又たまに、フランス料理を食べた後でさえ、『最後にお茶漬けと糠漬けがあれば完璧だった』という人だった。
糠漬けを漬ける母の姿は、私たちの暮らしの風景の一部だった。
母が手際よく糠を掻き回す時のリズム、そして音。
それは今でも私の中に、滋味深く染み込んでいる。
『ああ、糠漬け食べたい』、とふと思うのは糠と共に生きていた暮らしがふと記憶の中から顔を出し、なんてことはない、普段の日常を懐かしく思うからだろうか。
朝の光に包まれた台所の風景は優しく、美しい。
糠漬けはそれぞれの家庭により味も違い多様性に満ちている。
住んでいる環境、作る人の手についている菌によって個性が出るらしい。
母の口癖は、『糠床は毎日混ぜないと』
どんなに疲れていても、台所で糠床をかき混ぜる。
糠床には唐辛子や昆布、柚子の皮、山椒の実を時々混ぜていた。
唐辛子は防腐の為、
昆布は旨み、
柚子の皮や山椒の実は風味を増すため。
そもそも糠には栄養がたくさんある。
私たちは普段その栄養がたくさんある部分をわざわざ削って白いお米にして食べている。
削った部分を捨てるのはもったいないことだ。
糠漬けの原型は『すずほり』という漬物らしい。
すすほりは臼で引いた穀物や大豆を塩と混ぜて床を作ったそうだ。
すずほりよりも糠漬けの方が材料の面では無駄なく合理的だと思う。
糠漬けは糠の栄養分が漬けた野菜に浸透して、さらに乳酸菌や酵母による発酵で甘みと香りが増し、おいしく変化する。
今、美味しい糠漬けはやはりきゅうりとナスだろうか。
きゅうりのカリッとした食感、
糠床から上げたばかりの茄子は美しい紫色を放っている。
母の糠床を受け継ぎ、これからは私が育てることにした。
ところで、糠床にはチーズやワインなど発酵した物は糠床に入れても良いらしい。
少し勇気がいるけど、いつかやってみるか。