我が家の出汁
朝起きたら、まず父と散歩へ出かける。
小さな足で、テクテクと父の後をついて、裏山のお寺まで歩いていく。
お寺の端にある山道から下を見下ろすと、うちの台所が見えた。
母がリズミカルにネギを刻む音が聞こえる。
今日のお味噌汁は何だろう。
朝の柔らかな光に包まれた、穏やかで遠い昔の私の記憶だ。
我が家の朝食はパンではなく、ほとんどがご飯とお味噌汁だった。

その毎日のお味噌汁は、いりこと昆布で出汁を取っていた。
出汁というと、昆布と鰹節を思い浮かべる人が多いかもしれない。
けれど、私が育った唐津では、鰹節よりもいりこを使った出汁のほうが身近だった。
いりことは、カタクチイワシなどを煮て干したもの。一般には「煮干し」とも呼ばれ、地域によって「いりこ」という呼び方が使われている。
大きさも、3センチほどの小さなものから、8センチほどの大きなものまでいろいろある。
小さいものは上品な出汁が取れ、大きいものはしっかりとした味わいになると言われるけれど、我が家では大きさをそれほど気にしていなかった。
お味噌汁はもちろん、普段の煮物などにも、いりこと昆布で取った出汁を使う。
時々、エソのいりこで出汁を取ることもあった。
エソはかまぼこの原料になる魚だが、カタクチイワシを獲る網に、時々エソの稚魚が紛れ込むことがあるらしい。
それを別に取り分けて煮干しにするため、手間もかかり、あまり大量には出回らない。
けれど、このエソの出汁も、鰹節に負けないくらい上品な味わいになる。
我が家の出汁の取り方は、いたってシンプルだ。
通常は、いりこと昆布、水を鍋に入れて弱火で煮出す。
けれど、私は最初の出汁には火を使わない。
瓶にいりこと昆布を入れ、水を注いで一晩冷蔵庫に入れておく。

そうすると、いりこと昆布の旨みがゆっくりと水の中に溶け出し、翌朝には、繊細な出汁が自然に出来上がっている。
私の中では、これを一番出汁と呼んでいる。
この一番出汁で、お味噌汁や和え物など、素材の味を生かした料理を作る。
一番出汁を取った後のいりこや昆布にも、まだ旨みは残っている。
だから、私は簡単には捨てない。

これらをもう一度鍋に入れ、水を注いで弱火で少し煮出す。
出汁を濾したら、さらに少しいりこと昆布を加える。
しばらくすると、旨みのしっかりした美味しい出汁が出来上がる。
この二番出汁は、野菜の煮物や炊き込みご飯などに使う。

魚から出汁を取るのは、日本だけではない。
西洋料理にも、魚を使った出汁やスープがある。
そう考えると、ふと、マルセイユの漁師料理だったブイヤベースが思い浮かぶ。
大きな鍋にカサゴの仲間など、いろいろな魚を入れ、セロリやニンジンなどの香味野菜と一緒にぐつぐつと煮込んでいく。
煮上がった魚には、ルイユという赤いソースをつけていただく。
ルイユには、ニンニクや卵黄、スパイスなどが使われる。
私がフランスで出会った魚のスープと、日本の出汁。
その違いは、どこにあるのだろう。
私が感じる大きな違いの一つは、素材の扱い方だ。
フランスで出会った魚の出汁は、魚や香味野菜など、いくつもの材料を加え、時間をかけて煮込むことで、複雑な味わいを作っていく。
一方、日本の出汁は、昆布といりこ、あるいは鰹節、そして水。
とてもシンプルな材料から、素材の旨みを引き出していく。
しかも、ぐらぐらと煮立てるのではなく、素材に合わせて温度や時間を加減しながら、必要な旨みだけを取り出していく。
日本料理では、出汁だけで料理を完成させるわけではない。
出汁は、いわば、ほかの素材の味を引き出すための土台のようなものだと思う。
食材は季節によって、味も香りも違う。
その素材の持ち味を生かしながら、一皿の中に季節をどう表現するか。
そこが、料理をする上で大切なところなのではないだろうか。
出汁そのものが強く主張してしまうと、料理全体のバランスが崩れ、せっかくの季節の味わいが分からなくなってしまう。
だからこそ、出汁には余計なものを加えず、できるだけ引き算をしていく。
鰹節で取る出汁も、いりこで取る出汁も、その考え方は基本的には同じなのだと思う。
そして、出汁でもう一つ欠かせないものがある。
それが水だ。
例えば、同じ昆布や鰹節を使っても、水の性質によって出汁の出方は変わる。
フランスなどでは硬水の地域も多いが、日本の水は比較的軟水が多い。
昆布などから旨みを引き出す日本の出汁にとって、この水も大切な存在なのだと思う。
山に降った雨が土にしみ込み、湧き水となり、川となって海へ流れていく。
そして、その山の水と海の恵みが、私たちの食卓で一杯の出汁になる。
子どもの頃、何気なく飲んでいた朝のお味噌汁。
その一杯の中には、海の幸だけでなく、山の水、この土地で暮らしてきた人々の知恵も入っていたのだと思う。
毎日いただく一杯のお味噌汁の中に、唐津の土地の恵みがある。